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~主婦のミカタ~ ※まとめてません

私「うわー!マジで死んでしまう!」

time 2024/05/26

私「うわー!マジで死んでしまう!」

488:483:14/08/20(水) 02:25:30 ID:4D0JUgBYaしかし、小学校からは悪い記憶しかない。
小学校にあがると、突如イジメの的にされたのだ。
理由はとても単純なもので、私の苗字が珍しかったかららしい。
姉や弟はそんなことは無かったらしいので、私は運が悪かったのだろう。
名前という自分ではどうしようもない事を理由に、無視から始まり、暴力・暴言、所有物の破損。色々やられたものだ。
だが私自身、大人しい性格ではないので自分から何か仕掛けることは無かったが、やられたらやりかえすのが日常だった。
やりかえすだけでなく、担任に訴えたこともあった。ところが何の役にも立たないどころか、なぜか私が叱られた。
 「ぶたれたからといって、ぶちかえしたらいけません。」
 「馬鹿と言われたからといって馬鹿と言い返してはいけません。」
 「やられたらやりかえすではいつまでたっても終わりません」
なるほど。正論である。では、私はどうやって降りかかる災難から身を守れば良いのか。担任はそれを教えてはくれなかった。
そして、担任がいじめていた者たちを注意することはなかった。

今でもあるのか知らないが、私が小学生の頃は「道徳」という時間があった。
ある日担任は、その道徳の時間を使って学級会を開いた。
テーマは「私さんの嫌なところ。直してほしいところ」。
とんでもないつるし上げ晒しあげだった。
つまり担任は「いじめられる私が悪い」ということだったのだ。
元々、親兄弟、友人などに何かを相談したりしたことはなかった。
私はこれを機に、誰かに自分の苦しみを打ち明けることを諦めた。
「すべて私が悪いのだ」。

私は学校で友人を作ることをやめた。
引っ越してすぐにできた友人とも仲良くするのをやめた。
当時、登校班というものがあり、同じ地域の子供たちは時間を決めて集まってから登校しなくてはならなかった。
私はその登校班に参加することもやめた。
友人たちが登校班でもあからさまに私を嫌がり煙たがるようになったからだ。
ある時、その友人たちが親に私と一緒に登校しないことを叱られたらしく、「なぜ私は登校班で一緒に登校しないのか」とひどく責められたことがあった。
今の今まで、私がいないことにむしろ喜んでいたじゃないか。私の知った事ではない。
友人たちのことを私は完全に無視した。正直どうでもよかった

学校から帰宅して何をしていたかと言うと、決して引きこもっていたわけではない。
私の住んでいたすぐ目の前に子供たちの遊び場があった。
そこには下は幼稚園から上は高校生まで。年齢問わず子供が集まって遊んでいた。
男の子ばかりだったが私もまわりもまるで気にせず遊びまわった。
学校から帰ると遊び場に飛んでいき、サッカーやドッジボール、たかおにやいろおに。とにかく走り回って遊んでいた。
元々身体を動かすのが大好きだった私は更に学校の友人などどうでもよくなっていた。

もちろん学校に行くのは嫌だった。
しかし、学校を休むと外に遊びに行かせてもらえないのでそれなりに通ってはいた。
休みがちではあったのでよく両親に叱られた。

でも、いっそこの時、不登校になっていた方が、今でもこんな修羅場を引きずる事にならなかったのではないかと考えたりもする。

489:483:14/08/20(水) 02:26:44 ID:4D0JUgBYa地域の遊び場でいろんな年齢の友達ができた。
特に仲良しだったが1つ上のTちゃんとKちゃん(ふたりとも女の子)だ。
Tちゃんとは今でも連絡を取り合う幼馴染のような関係になれた。
Kちゃんは今どこで何をしているのか知らない。

学校が終わればすぐに遊び場に飛んで行ったが、何度も書いている通りみんな年齢も学校もバラバラだったので、集まってくるまでに時間差があり、年下で遊び場に近いところに住む私が一番乗りということがよくあった。
そういう時は一人で遊具で遊びながらみんなが来るのを待っていた。
ある日、いつものように一人で遊んで人が来るのを待っていると、普段はあまり来ないKちゃんの一番上のお兄さんがやってきた。
Kちゃん・Tちゃん・私の3人でよく遊んでいたのでK兄のことも知っていた。私は突然現れたK兄に何か疑問に思う事もなく挨拶をした。

K兄「一人で遊んでるの?」
私「うん、みんなが来るの待ってるの」
K兄「じゃあみんなが来るまで一緒に遊ぼうか」
私「うん。何して遊ぶの?」
K兄「面白い遊びがあるんだ。こっちにおいで」

K兄は遊び場にあるいくつかの建物の1つに私を連れて入った。
今考えれば不用意だ。本当に不用意だ。当時の私を張り倒したい。
だが、その建物も遊ぶ時によく使っていた私には何も疑問に思うことができなかったのだ。

つづきます

490:483:14/08/20(水) 02:28:38 ID:4D0JUgBYa簡潔に言えば挿入こそされなかったものの、犯されたのだ。
脱がされ舐められ握らされ舐めさせられ。
今でも鮮明に思い出せる。思い出すと吐き気を催す。

当時は自分が何をされているのかわからなかった。
ただとても気持ち悪く、やめてほしかった。
いやだいやだと暴れたが、当時私は7~8歳で、K兄は20歳↑。
到底太刀打ちできるわけがなく、抵抗すると何発か殴られた。そして言ったのだ。

K兄「暴れたり、騒いだり、後で誰かに言ったりしたら、お姉ちゃんと弟のことボコボコにしちゃうよ」

殴られたのがものすごく痛かった。同年代の男の子の力なんて比べ物にならなかった。
この人に殴られるとこんなに痛い。でも気持ち悪い。でも、暴れると、姉や弟を殴るとK兄は言うのだ。

姉は特に身体が弱く、その頃になってようやく体育の授業も様子を見ながら出席して良いと言われたばかりだった。
毎年、運動会は見学だったけれど、今年は徒競走を走っても良いと言われたと両親も私も弟も喜んでいた。
弟はまだ幼稚園に入ったばかりだった。今では見る影もないくらい馬鹿でかい(190近い)が、あの頃はまだ、私よりずっとちっちゃかった。
私が嫌がれば、そんな二人にK兄は暴力を振るうという。

嫌だ嫌だ気持ち悪い。私が一体何をしたというのか。
でも、すぐにあの学級会を思い出した。私はこの時、殴られた痛みと恐怖と、あの学級会のことを思い出し、諦めてしまった。
「こんなことをされる私が悪いのだ」と。

ことが終わった後、K兄にはもう一度同じことを言われた。
しかし、私にはとうに、誰かに話すという事は頭の中にはなかった。すべて私が悪いのだから。
K兄はさっさとその場から消えてしまった。
しばらくブランコでぼーっとしていると、いつも通りみんなが集まってきたので、いつも以上に私は走り回った。
夢中で走り回らないと、何かがいけない気がしたんだ。

まだまだつづきます。。。すんません

491:483:14/08/20(水) 02:29:37 ID:4D0JUgBYaその後、K兄にはしばらくつきまとわれた。
私は決して誰にも話さなかった。
ただ、K一家は近所に住んでいたので見かけることもしょっちゅうあった。
私は視界にK兄を見つけるとさりげなく、そそくさと、逃げるようになった。
それを何回か繰り返すと、家に変な電話がかかってきた。
いわゆる「ねぇねぇ今どんなぱんつ?」な電話である。
最初電話に出たのは私。声でK兄だとすぐにわかったので電話を切った。またすぐに電話が鳴った。
K兄の言いたいことはすぐにわかった。「逃げるな」ということなのだと。
ならば外出をやめればよかったのだが、そうもいかなかった。
家にこもっていれば、外で遊んできなさいと言われ追い出されるだろうし、何かを聞かれるのが怖かったからだ。
家にいれば電話が鳴る。そしていつか本当に姉や弟が殴られるかもしれない。
私にはどうすることもできなかった。両親に話したら、きっとたくさん怒られてしまう。
私は、完全に諦めていた。

結局、外で遊ぶことはやめなかった。
なるべく一人にならないように、みんなが来てから遊び場に行くようにした。
そんなことをしても、遊び場に向かう途中で人気のないところに力ずくで引きずり込まれてしまい、結局は無意味だったんだけど。
とにかく全力で遊んで、気持ち悪い事を忘れようとするしか、私にはなくなっていた。
家族が殴られるのが怖かった。お前が悪いと晒し者にされるのが怖かった。
どうしようもない諦めしか私にはなかった。

しかし、K兄はある時を境に、ぱたりと姿を現さなくなった。
さりげなく様子を伺ってみるとK兄が乗っていたごついバイクがなくなっていた。
おそらく、就職か何かを機に家を出たのだろう。
何も解決しないまま、私の人生一番の修羅場は終わった。

そして、すぐに次の修羅場が起きた。

つづ(ry

492:483:14/08/20(水) 02:30:28 ID:4D0JUgBYa母と弟が突然失踪した。
ある日の夕方、母が「回覧板をまわしてくるね」と言って弟と外出した。
そしてそのまま帰ってこなかった。
その日の夜はどうやって過ごしたのか覚えていない。姉や父がどうしていたのかもよく覚えていない。
それからしばらくは私と姉で家事をして父は母と弟の行方を探していた。
時折、母方の祖母が食事を作りにきてくれた。
2か月ほど過ぎたころだと思う。父が母と弟を見つけたという。
3県ほど跨いだ土地の温泉旅館で住み込みで働いていたらしい。
見つかったきっかけは住民票が移されていたことらしい。まさか律儀に住民票を移しているのは盲点だった。
父と母の間にどういうやり取りがあったかは知らないが、母の居場所が判明したその週末に父と姉と私で母と弟を迎えに行った。
母が弟を連れて黙って失踪した理由は父との喧嘩が理由だった。
この喧嘩については私は9割方、母が悪いと思っている(色々とお金の問題があった)。1割は父だ。
父はいわゆるエリートで九州男児気質なため、昔は物の言い方や態度が色々酷かった。
今は年も取り大分丸くなったが。
母と弟が戻り、人生2度目の修羅場は終わりを迎えた。

この二大修羅場が起きた時期。
小学校低学年~中学年の記憶は本当にこの2つに関することしか覚えていない。
時折、TVを見ている時などに家族でテーマパークに行った話をしたり、ここにキャンプに行ったねという話題が出るのだが、私は何も覚えていない。
適当に相槌をうってごまかしていた。

この時には完全に壊れていたのだと思う。
今思い返しても、かなりの情緒不安定だったと思う。
そもそも、この頃から夜、熟睡できた記憶がない。
寝入るまでに最低でも2~3時間はかかったし、眠っても夢ばかり見て眠った気がしない。
恥ずかしい話、中学の頃までおねしょをしていた。
あまりにもおねしょが終わらないのでたまに遊びにきた祖母に「病気じゃないのか」と泣かれたこともあった。
夜眠れないのも、おねしょがなおらないのも、私が悪いのだと思っていた。
何か言えば、また、誰かに襲われるかもしれない。
強迫観念が私を縛り、完璧超人になろうと装うものの、スイッチが切れると何もできなくなってしまった。
私はなにもかもをめんどくさがるようになり、時には2~3日食事をとらないこともあった。

つd(ry

493:483:14/08/20(水) 02:31:24 ID:4D0JUgBYaそのまま中学・高校・専門と過ごしていくが、この間にも修羅場はいくつもあった。
高校は普通高校ではなく、県立の商業高校に通っていたが、親が振り込んでくれてると思っていた学費が納められていなかった。
担任から呼び出され、その事実を告げられ、このままでは退学になると言われた時は理解ができなかった。
公立で学費が払えず退学???意味が分からない。
学費未納の理由は、家計大雑把管理の母がすっかり学費の存在を忘れ使ってしまっていたからだ。
私はもうこの件を父に言うのはやめた。また喧嘩になって出て行かれてはたまったものじゃない。
担任に事情を話し、特別にもう少しだけ支払いを待ってもらった。
すぐにバイトを見つけて学費を稼いだ。
商業高校だったので普通の公立にくらべて学費が多少高かったが、バイトで賄える金額だった。私立じゃなくて本当によかった。
結局、高校の学費はすべて自分で支払った。

中学・高校・専門でも相変わらず休みがちであることには変わりなかったが、成績は上位を維持していた。でないと父に叱られるから。
担任にはよく「休みさえなければ完璧なのに!」と言われていたものだ。
だが面倒くさいと思ってしまったら最後。何もできなくなってしまう私には、どうしようもできなかった。
自分に甘いからそういう事になるんだと思った時もあったが、そう思ったところで動かないものは動かないのだ。
信じられないかもしれないが、本当に動けないのだ。
頭の中で「やらなきゃ、やらなきゃ」「ほら、寝てても良いことなんて一つもない。起きろ起きろ」
自分にどれだけ言い聞かせても、布団から身体を起こすことさえ結局できなかった。
しかし、家族のだれも、それがおかしいとは思っていなかった。
ただ単に私が強情で我が儘なだけだと思っていた。
両親も姉弟も、私が家族の中で一番強かで、放っておいてもなんだかんだで大丈夫。
実際、放っておかれても出席率はギリギリをキープし、留年も浪人もすることなく卒業した。

そして、私はそのまま社会人になり、また修羅場を迎えている。

ああ本当に長くてごめんなさいツヅキマス

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